渡る世間ははげばかり

死ぬな殺すな差別をするな

情けは人の為ならず

 齢半世紀を超え、人生の後半に向けて走り始めたこの時になすべき事、言わば人生の総括に向けた作業としてなすべき事は、「『人類史』における自分の位置づけ」を見いだすことだと思っています。
 


 人類史における自分の位置づけとは、社会への、他者への貢献であり、そしてそれが歴史を作ること、歴史を紡いでいくことだと私は信じています。
 つまり、
 農家の方は農産物を生産し、それを食料として他の職業の方に提供する。
 工業関係の方は人の生活に必要な物を作って、他の職種の方に提供する。
 商業に従事する方は、農産品、工業製品、各種サービスを消費者に提供する。
 公務に従事する方は、国または地方公共団体等に従事し、他の職種の方が、安心して暮らせるよう、公共サービスを提供する。
 
 各自がそれぞれの立場で他者の為に貢献し合う・・・「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくるということ」が「情けは人の為ならず」ということわざの正しい意味と言われています。
 私はこの「情けは人の為ならず」こそが、社会を成り立たせてているんだと少年時代から思い続けてきました。
 自然科学や社会科学、そして歴史等人文科学を学んで、人生の折り返し点を通過した今、どれだけ他者に、社会に、歴史に貢献できたかを総括し、さらに貢献していく・・・それを後半期に突入した人生で徹底していくべきだと思っています。
 人類の歴史を学んで私が理解してきた事、それは「神からの解放」をもたらした、ルネッサンス以降の「文化・文明の発展」が人間の精神・意識を同時に発展・成長させ、そしてそれらが目指すモノは、「全人類の生活の進歩・向上」であると思うとともに、そう信じてまいりました。
 即ち、文明の発展の先にあるのは「自然災害、戦乱、暴力、饑餓、貧困」からの「救済」であり、「平和・平等・人権尊重・反貧困などの人間解放」を目指すことであり、それこそが、正しい文明の発達、正しい人類の進歩であると今でも信じております。
 しかるに、本当に現代はその流れにあるでしょうか。当然不安と疑問を感じざるを得ません。


神も社会主義も死んだ
 一般的には、デカルトに端を発すると言われる、「神と格闘しながら自我を確立しようとした思想の流れ」は、古代ギリシア哲学にその源流を見出しながら、カントからヘーゲルを経てマルクスへと流れています。それらの考えは、自分は一人の人間であるという認識を確立させ、そして他者とどう関係し、どういう社会があるべき社会かを考察する思想に繋がりました。そういった思想の流れは、倫理観を向上させ、各種社会思想、人権思想を発展させて民主主義の成長を促しました。それが数々の人類救済・人間解放、人間を幸せにするための意識や運動を生み出し、特に産業革命以降、働く者の権利意識を萌芽・開花させ、労働組合の誕生に繋がっていったと、私は思っています。
 しかしその一方、産業革命以降の時代の流れはまた、反対の方向へもその歯車を大きく回していたのです。
 資本主義の成立とその帝国主義への変化、そして近世以降に勃興した民族主義等が、搾取と疎外、劣悪な労働環境、人権の抑圧、そして大量虐殺も正当化され、戦争はより規模が大きくなり、大変悲惨な戦禍をもたらし、核汚染をも含む環境破壊が引き起こされてきました。
 一時は人間解放思想の頂点としてもてはやされ、働く者の希望の象徴ですらあった社会主義思想ですが、民族解放闘争の手段へ転化されたこと等も要因として、結果的に「全世界の労働者の解放」という理想から大きく逸脱し、「革命が成功した社会主義国」は、理想とは真逆の人権抑圧・独裁政権に堕した挙げ句に次々と消滅し、残ったのは「社会主義」の名を一党独裁の免罪符として、国営企業が資本家と共に労働者を搾取する、“新しいタイプの資本主義国家”という、歴史の皮肉としか言いようのない為体です。
 哲学史に名を残すマルチン・ハイデッガーですが、彼はヒットラーを賛美しナチス党に入党するなど、毀誉褒貶が相半ばする哲学者です。そのため彼の同僚や弟子達、特に現代哲学史に大きく寄与している、ハンナ・アレントヤやエマニュエル・レヴィナス等のユダヤ人哲学者は、「生き残ってしまった者として」さらなる苦悩の中で、私たちに人間と社会のあり方を示してくれようとしています。その一人であるハンス・ヨナスの次の言葉は、今後の人生に、座右の銘の一つとして、常に心にあるべき言葉と考えています。・・・・「私たちに一方的に責任を負わせる原理は何か。私は自分の生死を選ぶ事が出来るが、他人の生死を決定出来ないという原理がそれだ」。


 「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」
 上にも述べましたように、私は産業というものは、「生活に必要な物をお互いに補充しあう」ためにある物と今でも思っています。「経済活動の当為は利潤の追求でなく、貨幣を尺度として図りすべてのものの適切な価格を決め市場を成させることこそ、経済活動の目的である」・・・・・明治・大正期の銀行家であり、経済哲学者でもある、左右田喜一郎のこの言葉は、まさに「人があって、人の為に資本主義がある」ことを物語っています。しかし現在、資本主義は、「利益の追求」としてしか意味を持たなくなってしまいました。また、「経済」、「経済活動」「経済額」等の言葉も「利益・効率優先」をベースに成り立っているというイメージしかありません。イギリスの女性経済学者ジョーン・ロビンソンの、「経済学を学ぶのは経済学者にだまされないためだ」という“名言”が本当に心に突き刺さります。
 明治維新・文明開化で様々な言葉が欧米から流入し、日本人は、それまで自分たちの概念になかった新しい言葉を日本語に訳すため、“日本語にする”ため、“和製漢語”を作ったり、あるいは同じような意味と思われる中国の古典等を当てはめるなどして、言わば“新しい日本語”を創り上げました。「哲学」、「労働」、「宗教」、「福祉」、「革命」といった言葉は、みんな明治以降に、作られたか現在のような使い方をされ始めたものです。そして、“Economy”という単語には、中国古典語の「経世済民」の略語・「経済」が当てはめられました。しかし「経世済民」を字義通りに解釈すると、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」、つまり世の中を良くして「民を、人間を、他人を」救っていくということになります。現在では頻繁に「経済」と言う言葉を使う人ほど、そんな事を微塵も考えていない人だと思われます。


消えゆく「先人達の成果」
 冷戦が終結し、世紀が改まって以降は、「人類全体が主人公を目指す思想」はまさにかけ声倒れとなり、「自分さえ良ければ他人はどうでも良い」としか説明しえない新自由主義に取って替わられました。その台頭による市場経済優先の原理がもたらしたものは、一部の人間により、他の大多数の人間が、「手段、道具」としてしか見なされていない社会です。 
 今や日本でもアメリカでも、あたかも「労働者に権利を認めることは経済のデメリット」と、宣言するかのような政策が堂々と行われています。TPPの雛形と言うべきNAFTAでは、米墨両国の労働者の権利がまさに「絵に画いた餅」になりました。劣悪な労働条件を強いられる人たちの大量の流入が、失業とさらなる労働条件の悪化を生み出したのです。
 そして今アメリカの、特に共和党系の州知事達が精力を注いでいるのは、まるで労組の存在自体を否定するかのような「労働権法」を州法として制定することであり、それを『セールスポイント』として、国内外の企業誘致に血道を挙げている有様です。
 片や日本はどうでしょう。7月に公表されたあの2012年度の総務省就業構造基本調査の結果は、非正規労働者が3割を超えるというあの報告は、かって「日本型社会主義」と言う、揶揄とも賞賛とも取れるような形容をされながらも、「安心して働ける社会」を保障していた「終身雇用制」が完全に昔話となったことを、否応なしに悟らさせました。財界は、「労働者の権利が強すぎるのが日本経済停滞の主因」として、労働運動の先人達がまさに血と汗と涙で、「人間の幸せのために」勝ち取ってきた働く者の権利をなくすよう、日に日にその弁を強くしています。
 2002年から2008年にかけて景気が回復していた時期、働く者の多くは「いざなみ超え景気」といわれたその盛況を実感できませんでした。「富の再分配」という概念が消され、企業の業績が給与に反映されないのに、「景気が良い」と言えるはずありません。「いざなみ超え景気」の時に「富の再分配」を優先していれば、給与に反映していれば、「デフレになんかにならなかった」と、誰しも思っているはずです。
 連合の「2014年春季生活闘争基本構想」の前書きは、「1,100万人の労働者が“ワーキング・プア状態”に置かれている」という事態等や上の調査結果に対して、「これら傷んだ雇用と賃金、労働条件を是正せず、格差の拡大や貧困の問題を放置すれば、社会の不安定化と劣化はより一層進むこととなる」と激しくかつ悲しいまでの警鐘を鳴らしています。
 そして、「労働基本権の“ロの字”も無視している」と言いたくなるような「ブラック企業」の横行、さらに上記のような財界の意を受け、今政府が行っている労働規制緩和の検討等は、多くの先人達が血と汗で勝ち取ってくれた闘いの成果を、まさに灰燼に帰そうとするものです。
 連合は「労働者保護ルール改悪阻止」闘争本部を設置しましたが、こういった闘争本部をナショナルセンターが作ること自体が非常事態であり、異常事態であることの証明です。まさに今は、「労働組合の存在意義が問われる時代」どころか、「労働組合の存在さえ危ない時代」と、残念ながら言わざるを得ません。


求められる再構築
 新自由主義者と呼ばれる人たちが唱える「成長と発展」は、誰の為の「成長と発展」なのでしょうか。彼らが口にする「成長と発展」は、自分たちの利益の為のそれであって、自分たち以外の人間は「自己責任」でそのポジションにいるのだから、「成長と発展」の恩恵を受ける権利はないと思っており、そういう考えが「グローバル・スタンダード」として、言わば「オーソライズ」されようとしています。
 何故TPPに対してこれだけ多くの人たちが、危惧と懼れ、そして怒りを訴えているか。それはこの“一部の者による、一部の者のための、一部の者だけの「成長と発展」”が、まさにTPPによって象徴づけられるからです。
 人類の文化・文明、意識・精神・思想の発展は「人間が戦争や貧困等に悩まされることなく、平和と豊かさを実感し、安心して暮らせる」社会を目指していたはずですが、このような時代の表象が示すのは、「雇用不安と貧困に苦しみ、若者が将来への希望への持てないばかりでなく、戦争の影におびえさえする社会」へと“逆行している”と言わざるを得ません。
 この時代に、今現在に出来る事やるべき事、それは、抽象的であるとの誹りを受けるかも知れませんが、連合が談話で多用するように、「「働くことを軸とする安心社会」を目指して努力すること、それに向けて地道に、愚直に取り組みを強めていくことであり、それが、「「平和・平等・人権尊重・反貧困」などの人間解放」を目指すこととなり、そしてそれこそが、「正しい文明の発達、正しい人類の進歩」であり、「成長」に相違ないと思いますし、そう信じたいと思っています。
 今や働く者に最も忌み嫌われる言葉となった「リストラ」ですが、その語源である“restructuring”という英語は、ロシア語の「Перестройка」、即ち、ソ連末期のゴルバチョフ時代に流行語となった、あの「ペレストロイカ」の英訳であることはよく知られた話です。日本語に直訳すると「再構築」を意味するこの言葉は、ソ連社会主義を本来の理想である「人間の顔をした社会主義」に戻す流れの中で多用された、言わば期待を示す言葉でした。それがソ連崩壊、社会主義の終焉を示すモノとなり、英訳されてから日本に伝わったときは、「総人件費抑制」、「人員削減」の意味しか表せなくなっていました。
 スキームやフェーズ、デバイスにマターなど、必要以上と思われるほどに横文字が使われる昨今ですが、立て直し等の意味を表す時は、「リストラ」の持つネガティブ過ぎるイメージの為、「再構築」という日本語が使われます。それはまさに皮肉としか言いようがありません。しかし、「正しい文明の発達、正しい人類の進歩、正しい成長」の為にも、今こそ本来もつ正しい意味、即ち「リストラ」を「ペレストロイカ」へと戻す取り組み、「成長と発展」を再構築することが求められているのです。


「農は国の本なり」・・・
 農業についても同様ですが、今政府が検討を進める方向には、「農業を利益を求めるための一産業」に押し込めようとする財界の意向しか見えません。設けられた会議での「農業を9時から5時までの農業、土日が休みの農業にする」という発言に疑問を抱かない人はいないでしょう。タダでさえブラック企業の跳梁跋扈等、他産業で労働条件が悪化する中、自然が相手で、農薬等劇薬を使い、作業事故も問題化されている農業で「5時に終わり土日は休み」という業務スタイルが確立できると本当に思っているのでしょうか?
 非農家の家庭に育った人は、多分誰でも考えたことがあると思うのですが、私も幼少時に「農業に従事したい」という夢を持ったことがあります。しかし、歳を重ね、そういう気もちは申し訳ないですが萎えてしまいました。「農業は本当に甘く見てはいけないもの」ですし、多面的機能をはじめとして、農業は他産業と同じに考えることは出来ないものと確信しています。
 今の若い人には想像つかないでしょうが、「農は国の本なり」という言葉が、四半世紀前にはまだ“通じて”いました。「自給率向上」「地産地消」等が叫ばれるに先にあるのは、再び日本人がその言葉を抵抗なく口にできる世の中であるべきですし、そのためにも「農林水産省の関連する」業務を充実させるべきであり、その先にある私たちも仕事も、それにより、さらに多くの人に貢献できるという、自負を持つことが出来るのです。
   このような、「四半世紀に亘る自分なりの取り組み」を、今後も続けていくことが、冒頭に述べましたように、「『人類史』に自分を位置づける作業」であり、それが本当に微力でも、歴史を紡いでいくこと、歴史に参加することです。そしてそれこそが、私自身が生きていたことの証ともなると確信しております。