渡る世間ははげばかり

死ぬな殺すな差別をするな

中国の首都は「ベイジン」、イギリスからパキスタンと分かれて独立したあの国も現地の言葉に従い「バーラト」中国の首都は「ベイジン」、イギリスからパキスタンと分かれて独立したあの国も現地の言葉に従い「バーラト」

ウクライナ戦争に対する素朴な疑問
1.例えウクライナの現政権が、極右・ネオナチで、東部のロシア語系住民を迫害し、また同国が人身売買の巣窟等「犯罪的国家」であっても、正当な選挙で選ばれた政権に対し、首都攻撃等全面的な侵攻をする権利があったのか。
2.正当な政権であっても、ゼレンスキー大統領に「18歳から60歳までの男性は出国せずに闘え」と命令できるのか?国民の生命優先すべきではないのか
3.ロシアがウクライナで行っていることはかってアメリカがイラクで、NATOリビアで、イスラエルパレスチナ自治区でやっていることとどう違うのか。なぜロシアの侵略行為に対してだけ、批判が当然とされるのか。
4.ミャンマーアフガニスタン、シリア、イエメン、世界中で生地を追われた人は何万人もいる。ウクライナ難民だけがなぜこれだけ優先されるか?
5.日本では、名古屋入国管理事務所の事件や、外国人技能実習生に対する虐待など、外国籍の方への人権侵害が数多ある。それらを無視してウクライナ難民だけ優遇されるはおかしくないか?

6.ロシアによる大規模な攻撃は全てフェイクニュースかつ、ウクライナ軍による自作自演と言われるが本当にそんな事が可能なのか?
7.政府はウクライナ支援を重要とするがコロナ禍以降、或いは以前から国内での支援が最重要ではないのか。
8.日本の国防が重要と言う論調が多くなったが、ウクライナの影響でただでさえ値上げ傾向にある物価が余計に高騰しており、それへの対応が真に国民を守ることではないのか。

9.「キエフ」→「キーウ」、「チェルノブイリ」→「チョルノーブィリ」、「オデッサ」→「オデーサ」なら名曲展覧会の絵の最終章も「キーウの大門」に変わるのか、名画「戦艦ポチョムキン」の悲惨な場面も「オデーサの階段」と表記するの?だったら「モスクワ」→「マスクヴァ」、中国の首都は「ベイジン」、イギリスからパキスタンと分かれて独立したあの国も現地の言葉に従い「バーラト」にすべきだと思う。

 

#戦争や紛争は個人であれ国家であれ敵対する相手である他者の存在の抹殺や支配を意図する限り原理的に他者の立場に立つことを拒否した思想  #人が国家を形づくり国民として団結するのは人類として個人として人間として生きるためであり決して国民として生きるためでも何でもない #私は自分の生死を選ぶことができるが他人の生死を決定することができない #戦争と差別するには人生短すぎる #人間にあって一番大切なものは生命それは人間に一度だけ与えられる #共通の運命としての死が避けられないことこそ我々の共通性の明らかなシンボル

一人いればいい

天皇の義兄になる可能性が高い男性へ税金が使われる」と批判するなら、「税金で暮らしているんだから怪しげな奴との結婚は認めない」と言うのなら、まず現在の皇室・皇族への税金の使い方から考え問い直していかないといけない。「税金で暮らしているんだから怪しげな奴との結婚は認めない」と言うのなら、現行憲法と現行皇室典範との乖離、違憲性を検証すべき。憲法皇室典範で決めろと言ってるのは、世襲のやり方だけである。

 現憲法では、華族ほど明確に禁止はしていないが、「皇室」と言う文字は財産処理に関する項だけであり、皇族・皇太子・親王等の記述はない。つまり憲法上に、天皇の親族を税金で養う根拠、天皇の身内を縛る根拠がない。

 岸田が踏襲する安倍改憲案は、自衛隊を9条に書き込めば違憲じゃないという幼稚極まりない発想だが、それで考えると、憲法上の根拠が無いから皇族と言うのは、違憲的存在と言えなくもない。

 

 要するに話題の人が旧華族とか議員、大企業の子息等「ふさわしい家柄」でなく母子家庭で叩きやすい事に問題がある。

何より、誰が「天皇の義兄」になったとしても、それが憲法で定められた天皇の国事行為に全く支障がない。

 カナダ総督は、国家元首ですので同じに考えてはいけないが、国政になんの権利も持たず、各種承認等の、天皇と同様の与えられた国事行為をこなすだけの存在。総督は女性はもちろん、アフリカ系やアジア系の人も歴任しているが、日本も皇室典範改正により女性・女系は勿論養子等が出来るよう変えていくべき。皇統の継承なんて国民には問題ではない。象徴として天皇一人いればいい。

 

誰も傷ついてないのになんで悲劇だ

リーグ発足直前の、W 杯アメリカ大会アジア予選の時に急に巻き起こった「サッカー日本代表を応援しない奴は日本人じゃない」かの如くの同調圧力に、怒りと恐怖を感じた。そして予選の結果がいわゆる「ドーハーの悲劇」となった時、「誰も傷ついてないのになんで悲劇だ」と思いながら、二週間ほど笑いが止まらなかった記憶がある。

れ以来「アンチサッカー日本代表」として生きてきた。安倍政権以降、政府に対し批判どころか政策に疑問を抱くだけで「反日」の烙印を押されかねない状況だが、これからも「アンチ日本代表」を公言する決意である。

れに、今回のように、応援したくてもDAZNで特別に料金を払わないと見られもしない状況を見ると、アンチでよかったと思わざるを得ない。「日本人なら代表応援は当然」と言うのなら地上波でやれ。

ニッポン負けろ!

ニッポン負けろ!
ニッポン負け〜ろ!

アンチサッカー日本代表ここにあり!

この際天皇さんは

この際天皇さんにはもう

京都に帰ってきてもらいましょ

東京では統帥権とか国家元首とか

それまでになかったものをつけられ、

もともと六十余州バラバラに

それぞれの領主が統治していて

言葉もその地方の言葉でまるで別々の国が

沢山あったようで

現代で言う連邦やったのに

「一つの国」にされてもた

 


宗教かて仏教や

神道だけでなく儒教道教

その他も混じって

拝んでいる人も仏さんを

拝んでいるのか土着の神さんか

それとも中国・インド発祥の神か

よくわからないものを自然に

お参りして信仰してたのに

廃仏毀釈」とか

国家神道」ちゅうもんで

無理やりに寺どころか神社も

「こんな仰山イラン」と言われて

仰山壊された

 


天皇さんが京都にいたとき

平安神宮もなかったし

明治神宮は勿論のこと

橿原神宮さえありまへん

初代さんを祀る神社がないと

国家神道の名が廃る

神武天皇陵とされていたところに

人を追い出すようなことも含めて

造らはったものやがな

 


その現代で言う天皇

ホンマかどうかわかりまへん

江戸時代に出てきた勤王思想

歴代天皇さんの

墓決めんとあかんやろ

関西にあった古墳群

「○○天皇陵」とつけていき

全部決まったのは明治時代

考古学的に100年ほど

誤差ある陵墓もあるそうで

 


ともかく明治になって天皇さん

東京に連れて行ってからき

それまでになかった天皇になってもた

今「伝統」と言われてるものも

維新の時に無理やりに

作ったものがまじってます

 


万世一系と聞きますと

まっすぐ一本に繋がってるようですが

系図ではあっちこっち飛んで

よく見ないと繋がらない場合もあり

南北朝の時は二つの系統ケンカして

足利義満南朝方が丸め込まれ

北朝系が今まで続いてますが

何故か南朝正閏論

まあ北朝天皇

南朝天皇の養子になったから

筋は通るということで

 


男系男系言いますが

摂関政治の時代には

藤原氏が自分の娘を嫁に出し

天皇産ませて自分は後見

平氏や徳川の血を引く天皇

即位してます真似をして

男の子ばっかり産まそうと

思たらとても皇后さん

一人では身がもたん

側室お妾いっぱい作らんと

 


そしたら、華族・貴族復活で

特権階級作らんと

男系天皇続けるには

それは憲法禁じてます

貴族・華族はあきまへん

 


山本太郎さんある総理を

スットコドッコイ

言うてます

スットコドッコイに失礼な

その元総理は自衛隊

違憲と言われる可哀そう

だから九条につけましょうと

幼稚なことを言いまして

そいつに逆らうことのない

地味な岸田も改憲

それでいくと言いました

 


そんな事を言い出すと

今の憲法皇后や

皇太子とか内親王

皇族の文字もアリマヘン

皇室だって財産の

箇所でその文字あるだけで

憲法特にふれてまへん

 


憲法に書いたら合憲ならば

憲法のどこ探しても

書いてない皇后はんやら

違憲になるのとちゃいまっか

 


要するに憲法

天皇さんは象徴で

政府が言うた

国事行為

ハンコおすだけの存在どす

 


皇族・皇室憲法

ないから皇室典範

憲法に合うように改正し

陛下様さえおられれば

姪御さんが誰とでも

好きな人とご結婚

税金つかうこともなし

 


デジタル時代の世のなかは

コロナのばい菌手伝って

ホームワークが浸透し

東京千代田にいなくても

上京区に帰ってきて

皇族じゃなくて

縛りのない家族と

普通に暮らしながら

テレワークで国事行為

明治みたいな皇室典範

改正したらよろしおす

今の憲法に近づけて

 


京都中華思想やと

言われる私にとりまして

天皇京都のもんでっせ

関東人や長州人

天皇崇拝オコガマシイ

京都以外の田舎もん

せっかく政府があるんやから

民主主義を立て直し

 


江戸時代までやってた様に

天皇のことは京都人

京都に天皇いたら良い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の成人式

   私が成人を迎えた頃、京都市の成人式は、市や区から案内状等などは一切こず、今の様に指一本でスマホで情報を集めるようなことが出来る時代じゃ無かったにもかかわらず、自分からなんらかの方法で申し込まなければ式には出られませんでした。
 だから私に成人式の記憶はありませんが、その代わりに、新成人を対象とした、あの「天井桟敷の人々」の試写会に申し込み、運良く当選して、大阪のABCホールへ出かけました。
 当日は、あのおスギとピーコさんがゲストスピーカーで、「フランスは第二次世界大戦中に、領土を半分ドイツに占領されているにも関わらずこのような名画を作ったが、日本は戦争から30年以上経つのに「連合艦隊」のような馬鹿な映画を作っている」と話された事を昨日の様に記憶しています。
 そのお二人の内どちらか憶えていないのが申し訳ないのですが、この「私の成人式」のニ年程前に「さらば宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットした時、神風攻撃を想起させる、敵に特攻すると言うラスト(キムタクの実写版も同じラストだった)に対して、「死んじゃいけないのよ」と、ラジオの深夜放送で話された所、熱狂的なファンからクレームの葉書が殺到して言わば炎上状態となり、おスギさんorピーコさんは泣きながら反論されたと言うエピソードがあります。
 今、世間の話題はコロナか「鬼滅の刃」ですが、その映画版に関して、「昔見た「さらば宇宙戦艦ヤマト」を思い出した」と言う記事を読みました。私は、「出前一丁」とコラボしたカップ麺「鬼滅一丁」を食べたぐらいで、殆ど鬼滅の事は知りませんし、映画のストリーもわかりませんが、この記事を読んでから、「成人式」でのおスギとピーコさんを思い出し、関心を示さない様にしてます。

情けは人の為ならず

 齢半世紀を超え、人生の後半に向けて走り始めたこの時になすべき事、言わば人生の総括に向けた作業としてなすべき事は、「『人類史』における自分の位置づけ」を見いだすことだと思っています。
 


 人類史における自分の位置づけとは、社会への、他者への貢献であり、そしてそれが歴史を作ること、歴史を紡いでいくことだと私は信じています。
 つまり、
 農家の方は農産物を生産し、それを食料として他の職業の方に提供する。
 工業関係の方は人の生活に必要な物を作って、他の職種の方に提供する。
 商業に従事する方は、農産品、工業製品、各種サービスを消費者に提供する。
 公務に従事する方は、国または地方公共団体等に従事し、他の職種の方が、安心して暮らせるよう、公共サービスを提供する。
 
 各自がそれぞれの立場で他者の為に貢献し合う・・・「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくるということ」が「情けは人の為ならず」ということわざの正しい意味と言われています。
 私はこの「情けは人の為ならず」こそが、社会を成り立たせてているんだと少年時代から思い続けてきました。
 自然科学や社会科学、そして歴史等人文科学を学んで、人生の折り返し点を通過した今、どれだけ他者に、社会に、歴史に貢献できたかを総括し、さらに貢献していく・・・それを後半期に突入した人生で徹底していくべきだと思っています。
 人類の歴史を学んで私が理解してきた事、それは「神からの解放」をもたらした、ルネッサンス以降の「文化・文明の発展」が人間の精神・意識を同時に発展・成長させ、そしてそれらが目指すモノは、「全人類の生活の進歩・向上」であると思うとともに、そう信じてまいりました。
 即ち、文明の発展の先にあるのは「自然災害、戦乱、暴力、饑餓、貧困」からの「救済」であり、「平和・平等・人権尊重・反貧困などの人間解放」を目指すことであり、それこそが、正しい文明の発達、正しい人類の進歩であると今でも信じております。
 しかるに、本当に現代はその流れにあるでしょうか。当然不安と疑問を感じざるを得ません。


神も社会主義も死んだ
 一般的には、デカルトに端を発すると言われる、「神と格闘しながら自我を確立しようとした思想の流れ」は、古代ギリシア哲学にその源流を見出しながら、カントからヘーゲルを経てマルクスへと流れています。それらの考えは、自分は一人の人間であるという認識を確立させ、そして他者とどう関係し、どういう社会があるべき社会かを考察する思想に繋がりました。そういった思想の流れは、倫理観を向上させ、各種社会思想、人権思想を発展させて民主主義の成長を促しました。それが数々の人類救済・人間解放、人間を幸せにするための意識や運動を生み出し、特に産業革命以降、働く者の権利意識を萌芽・開花させ、労働組合の誕生に繋がっていったと、私は思っています。
 しかしその一方、産業革命以降の時代の流れはまた、反対の方向へもその歯車を大きく回していたのです。
 資本主義の成立とその帝国主義への変化、そして近世以降に勃興した民族主義等が、搾取と疎外、劣悪な労働環境、人権の抑圧、そして大量虐殺も正当化され、戦争はより規模が大きくなり、大変悲惨な戦禍をもたらし、核汚染をも含む環境破壊が引き起こされてきました。
 一時は人間解放思想の頂点としてもてはやされ、働く者の希望の象徴ですらあった社会主義思想ですが、民族解放闘争の手段へ転化されたこと等も要因として、結果的に「全世界の労働者の解放」という理想から大きく逸脱し、「革命が成功した社会主義国」は、理想とは真逆の人権抑圧・独裁政権に堕した挙げ句に次々と消滅し、残ったのは「社会主義」の名を一党独裁の免罪符として、国営企業が資本家と共に労働者を搾取する、“新しいタイプの資本主義国家”という、歴史の皮肉としか言いようのない為体です。
 哲学史に名を残すマルチン・ハイデッガーですが、彼はヒットラーを賛美しナチス党に入党するなど、毀誉褒貶が相半ばする哲学者です。そのため彼の同僚や弟子達、特に現代哲学史に大きく寄与している、ハンナ・アレントヤやエマニュエル・レヴィナス等のユダヤ人哲学者は、「生き残ってしまった者として」さらなる苦悩の中で、私たちに人間と社会のあり方を示してくれようとしています。その一人であるハンス・ヨナスの次の言葉は、今後の人生に、座右の銘の一つとして、常に心にあるべき言葉と考えています。・・・・「私たちに一方的に責任を負わせる原理は何か。私は自分の生死を選ぶ事が出来るが、他人の生死を決定出来ないという原理がそれだ」。


 「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」
 上にも述べましたように、私は産業というものは、「生活に必要な物をお互いに補充しあう」ためにある物と今でも思っています。「経済活動の当為は利潤の追求でなく、貨幣を尺度として図りすべてのものの適切な価格を決め市場を成させることこそ、経済活動の目的である」・・・・・明治・大正期の銀行家であり、経済哲学者でもある、左右田喜一郎のこの言葉は、まさに「人があって、人の為に資本主義がある」ことを物語っています。しかし現在、資本主義は、「利益の追求」としてしか意味を持たなくなってしまいました。また、「経済」、「経済活動」「経済額」等の言葉も「利益・効率優先」をベースに成り立っているというイメージしかありません。イギリスの女性経済学者ジョーン・ロビンソンの、「経済学を学ぶのは経済学者にだまされないためだ」という“名言”が本当に心に突き刺さります。
 明治維新・文明開化で様々な言葉が欧米から流入し、日本人は、それまで自分たちの概念になかった新しい言葉を日本語に訳すため、“日本語にする”ため、“和製漢語”を作ったり、あるいは同じような意味と思われる中国の古典等を当てはめるなどして、言わば“新しい日本語”を創り上げました。「哲学」、「労働」、「宗教」、「福祉」、「革命」といった言葉は、みんな明治以降に、作られたか現在のような使い方をされ始めたものです。そして、“Economy”という単語には、中国古典語の「経世済民」の略語・「経済」が当てはめられました。しかし「経世済民」を字義通りに解釈すると、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」、つまり世の中を良くして「民を、人間を、他人を」救っていくということになります。現在では頻繁に「経済」と言う言葉を使う人ほど、そんな事を微塵も考えていない人だと思われます。


消えゆく「先人達の成果」
 冷戦が終結し、世紀が改まって以降は、「人類全体が主人公を目指す思想」はまさにかけ声倒れとなり、「自分さえ良ければ他人はどうでも良い」としか説明しえない新自由主義に取って替わられました。その台頭による市場経済優先の原理がもたらしたものは、一部の人間により、他の大多数の人間が、「手段、道具」としてしか見なされていない社会です。 
 今や日本でもアメリカでも、あたかも「労働者に権利を認めることは経済のデメリット」と、宣言するかのような政策が堂々と行われています。TPPの雛形と言うべきNAFTAでは、米墨両国の労働者の権利がまさに「絵に画いた餅」になりました。劣悪な労働条件を強いられる人たちの大量の流入が、失業とさらなる労働条件の悪化を生み出したのです。
 そして今アメリカの、特に共和党系の州知事達が精力を注いでいるのは、まるで労組の存在自体を否定するかのような「労働権法」を州法として制定することであり、それを『セールスポイント』として、国内外の企業誘致に血道を挙げている有様です。
 片や日本はどうでしょう。7月に公表されたあの2012年度の総務省就業構造基本調査の結果は、非正規労働者が3割を超えるというあの報告は、かって「日本型社会主義」と言う、揶揄とも賞賛とも取れるような形容をされながらも、「安心して働ける社会」を保障していた「終身雇用制」が完全に昔話となったことを、否応なしに悟らさせました。財界は、「労働者の権利が強すぎるのが日本経済停滞の主因」として、労働運動の先人達がまさに血と汗と涙で、「人間の幸せのために」勝ち取ってきた働く者の権利をなくすよう、日に日にその弁を強くしています。
 2002年から2008年にかけて景気が回復していた時期、働く者の多くは「いざなみ超え景気」といわれたその盛況を実感できませんでした。「富の再分配」という概念が消され、企業の業績が給与に反映されないのに、「景気が良い」と言えるはずありません。「いざなみ超え景気」の時に「富の再分配」を優先していれば、給与に反映していれば、「デフレになんかにならなかった」と、誰しも思っているはずです。
 連合の「2014年春季生活闘争基本構想」の前書きは、「1,100万人の労働者が“ワーキング・プア状態”に置かれている」という事態等や上の調査結果に対して、「これら傷んだ雇用と賃金、労働条件を是正せず、格差の拡大や貧困の問題を放置すれば、社会の不安定化と劣化はより一層進むこととなる」と激しくかつ悲しいまでの警鐘を鳴らしています。
 そして、「労働基本権の“ロの字”も無視している」と言いたくなるような「ブラック企業」の横行、さらに上記のような財界の意を受け、今政府が行っている労働規制緩和の検討等は、多くの先人達が血と汗で勝ち取ってくれた闘いの成果を、まさに灰燼に帰そうとするものです。
 連合は「労働者保護ルール改悪阻止」闘争本部を設置しましたが、こういった闘争本部をナショナルセンターが作ること自体が非常事態であり、異常事態であることの証明です。まさに今は、「労働組合の存在意義が問われる時代」どころか、「労働組合の存在さえ危ない時代」と、残念ながら言わざるを得ません。


求められる再構築
 新自由主義者と呼ばれる人たちが唱える「成長と発展」は、誰の為の「成長と発展」なのでしょうか。彼らが口にする「成長と発展」は、自分たちの利益の為のそれであって、自分たち以外の人間は「自己責任」でそのポジションにいるのだから、「成長と発展」の恩恵を受ける権利はないと思っており、そういう考えが「グローバル・スタンダード」として、言わば「オーソライズ」されようとしています。
 何故TPPに対してこれだけ多くの人たちが、危惧と懼れ、そして怒りを訴えているか。それはこの“一部の者による、一部の者のための、一部の者だけの「成長と発展」”が、まさにTPPによって象徴づけられるからです。
 人類の文化・文明、意識・精神・思想の発展は「人間が戦争や貧困等に悩まされることなく、平和と豊かさを実感し、安心して暮らせる」社会を目指していたはずですが、このような時代の表象が示すのは、「雇用不安と貧困に苦しみ、若者が将来への希望への持てないばかりでなく、戦争の影におびえさえする社会」へと“逆行している”と言わざるを得ません。
 この時代に、今現在に出来る事やるべき事、それは、抽象的であるとの誹りを受けるかも知れませんが、連合が談話で多用するように、「「働くことを軸とする安心社会」を目指して努力すること、それに向けて地道に、愚直に取り組みを強めていくことであり、それが、「「平和・平等・人権尊重・反貧困」などの人間解放」を目指すこととなり、そしてそれこそが、「正しい文明の発達、正しい人類の進歩」であり、「成長」に相違ないと思いますし、そう信じたいと思っています。
 今や働く者に最も忌み嫌われる言葉となった「リストラ」ですが、その語源である“restructuring”という英語は、ロシア語の「Перестройка」、即ち、ソ連末期のゴルバチョフ時代に流行語となった、あの「ペレストロイカ」の英訳であることはよく知られた話です。日本語に直訳すると「再構築」を意味するこの言葉は、ソ連社会主義を本来の理想である「人間の顔をした社会主義」に戻す流れの中で多用された、言わば期待を示す言葉でした。それがソ連崩壊、社会主義の終焉を示すモノとなり、英訳されてから日本に伝わったときは、「総人件費抑制」、「人員削減」の意味しか表せなくなっていました。
 スキームやフェーズ、デバイスにマターなど、必要以上と思われるほどに横文字が使われる昨今ですが、立て直し等の意味を表す時は、「リストラ」の持つネガティブ過ぎるイメージの為、「再構築」という日本語が使われます。それはまさに皮肉としか言いようがありません。しかし、「正しい文明の発達、正しい人類の進歩、正しい成長」の為にも、今こそ本来もつ正しい意味、即ち「リストラ」を「ペレストロイカ」へと戻す取り組み、「成長と発展」を再構築することが求められているのです。


「農は国の本なり」・・・
 農業についても同様ですが、今政府が検討を進める方向には、「農業を利益を求めるための一産業」に押し込めようとする財界の意向しか見えません。設けられた会議での「農業を9時から5時までの農業、土日が休みの農業にする」という発言に疑問を抱かない人はいないでしょう。タダでさえブラック企業の跳梁跋扈等、他産業で労働条件が悪化する中、自然が相手で、農薬等劇薬を使い、作業事故も問題化されている農業で「5時に終わり土日は休み」という業務スタイルが確立できると本当に思っているのでしょうか?
 非農家の家庭に育った人は、多分誰でも考えたことがあると思うのですが、私も幼少時に「農業に従事したい」という夢を持ったことがあります。しかし、歳を重ね、そういう気もちは申し訳ないですが萎えてしまいました。「農業は本当に甘く見てはいけないもの」ですし、多面的機能をはじめとして、農業は他産業と同じに考えることは出来ないものと確信しています。
 今の若い人には想像つかないでしょうが、「農は国の本なり」という言葉が、四半世紀前にはまだ“通じて”いました。「自給率向上」「地産地消」等が叫ばれるに先にあるのは、再び日本人がその言葉を抵抗なく口にできる世の中であるべきですし、そのためにも「農林水産省の関連する」業務を充実させるべきであり、その先にある私たちも仕事も、それにより、さらに多くの人に貢献できるという、自負を持つことが出来るのです。
   このような、「四半世紀に亘る自分なりの取り組み」を、今後も続けていくことが、冒頭に述べましたように、「『人類史』に自分を位置づける作業」であり、それが本当に微力でも、歴史を紡いでいくこと、歴史に参加することです。そしてそれこそが、私自身が生きていたことの証ともなると確信しております。